スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

宇多田ヒカルさんの「道」を聴きながら考えるアレコレ

来月リリースされる宇多田ヒカルさんのニューアルバムが待ち遠しくて、このごろ『Fantôme』をよく聴いている。
収録曲ほぼ全部キラーチューンとはいえ、2年前に初めて聴いたとき、特に衝撃を受けたのはオープニングトラックの「道」だった。この曲には特に「あなた」という言葉がよく出てくる。

「私の心の中にあなたがいる いつ如何なる時も」
「一人で歩いたつもりの道でも 始まりはあなただった」
「どんなことをして誰といても この身はあなたと共にある」
「一人で歩まねばならぬ道でも あなたの声が聞こえる」

宇多田ヒカルさんが「あなた」と呼びかけるとき、多くの場合、それは母親に呼びかけている、というのが渡辺の持論だけれども、この曲に関しては、それとは別に、ゴスペルの歌詞でよく使われるYou/Theeの影響もあるような印象を受ける。ゴスペルで歌われる「あなた」、つまり神様のことだ。

キリスト教の絶対者としての神の存在に言及したもののひとつに、ルネ・デカルトの無限についての議論がある。

曰く、人間は有限の存在であるが、一方で無限について考えることができる。
有限の存在である人間は本来、無限について考えることは不可能なはずである。
ならば無限の観念は一体どこから到来したのか。
それは人間とは異なる外部から、つまり神から到来したのである…。

それから3世紀のち、ハイデッガーに至るまでデカルトに由来する「Cogito ergo sum(我思う、故に我あり)」のエゴイズムを育み、帝国主義を推し進めてきた西洋哲学の批判者としてエマニュエル・レヴィナスが現れる。

レヴィナスは、デカルトの無限論に対して、無限の観念は、神ではなく、他者から到来すると考えた。
自己とは絶対的に切り離された、外部性、無限として他者は現前し、顔とまなざしを通して私の存在を問いただしてくる。
私の考えや認識の源は、他者から到来したものであり、その意味で、私は他者に対して責任を引き受け、それに応えていく。
それによって他者を同化し把持する暴力的な関係でない、私と他者の倫理的な関係が築かれる、と彼は言う。

ここで話を宇多田ヒカルさんの「道」に戻すと、

「一人で歩いたつもりの道でも 始まりはあなただった」

という歌詞は、レヴィナスの「観念は他者から到来する」という主張と、見事に共鳴する。
だから2年前に「道」を聴いた渡辺は「ようやくJ-POPがレヴィナスに追いついたのか」という衝撃と感激をもってこの曲を受け止めた。

宇多田ヒカルさん自身は、とても個人的な経験や日々の思索からこの歌詞を書かれたのだと思う。
(そしてやっぱりこの「あなた」は、母親のことを言っていると思う)

それでも、宇多田ヒカルさんの歌詞の魅力は、そうした個人的な思索を誰もが共感できる言葉で伝え、そして時に哲学的な問いを投げかけてくることなんだろうと思う。

話は変わるが、最近、仕事の参考にとドラッカーを読んでいる(10年近く前の「もしドラ」ブームからだいぶ遅刻した感がある)。
ドラッカーの経歴を調べてみると、彼もレヴィナスと同世代の人で、しかも同じユダヤ系で、同じく20世紀ナチス・ドイツの猛威を経験している。

その彼も、人間の本質は自由であることだ、そして自由とは権利ではなく義務であり、その意味するところは「責任ある選択」であり、人間に課せられた最も重い荷物だ、というようなことを言っている。

哲学と経営学、まったく畑違いの2人がともにナチス・ドイツの猛威を経験し、同じように「責任」という言葉を中心に理論構築したのが興味深い。

コメントの投稿

非公開コメント

カテゴリ
検索フォーム
最新記事
プロフィール

渡辺いと

Author:渡辺いと
(本名:渡辺峻)
1983年東京生まれ
【好きな音楽】
・クラシックピアノ
・アングラヒップホップ
・演歌
【好きな球団】
・阪神タイガース
【好きな汎用人型決戦兵器】
・エヴァンゲリオン弐号機

最新コメント
最新トラックバック
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。