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中村仲蔵とクラシックの解釈について

新年あけましておめでとうございます。
謹んで皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

いよいよ平成も残りわずかですね。
平成が終わるまでにあと数曲アップする予定なので、
どうか気長にお待ちくださいませ。
別に待ってないって?そうですか。

さて、平成最後の年末年始だからって、
特段変わりはなく、いつもの寝正月だったわけですが、
そういえば年末、両国の小屋で落語を聴いてきましたよ。
生で落語を聴くのは初めてでしたが、とても楽しめました。
いわゆる生本番、って違うそうじゃない正月から何言ってんだ。

その落語会でトリをつとめた林家はな平さんの演目が
『中村仲蔵』という歌舞伎役者の人情噺だったのですが、
これがもう見事。
どっしりとした語り口から豊かな表情や仕草でもって、
緩急のついた丁寧な描写から、当時の江戸の光景が
ドラマのように鮮明に脳内再生されるんですね。
いや、噺家さんってホントにすごい。

今日の本題は、その初代・中村仲蔵についてです。
なんか野比のび太みたいな名前ですが。
馬鹿にしちゃいけません、歌舞伎役者として
一代で名を馳せた名優だったそうで。

私が聴いた噺のあらすじを簡単に説明すると、
歌舞伎役者としては三流、機転は利くが稽古は不真面目だった
主人公・仲蔵が、あるとき市川團十郎に認められて一念発起し、
必死の稽古の末に名題(いわゆるスター)にまで昇りつめました。
そこで、名題になった仲蔵に最初にあてがわれた役が、
『仮名手本忠臣蔵』の五段目、斧定九郎という端役。
当時の斧定九郎は、顔を真っ赤に塗りたくった山賊の格好をして
「五十両~~~」と叫んですぐ死ぬつまらない役で、
おまけに、五段目というのは弁当幕とも呼ばれていて、
客席はみんな舞台よりも弁当に夢中になっている中で
それを演じなければならない、まあなんともやりがいの
ない役だったそうです。
その配役を知った仲蔵、「おれは定九郎なんて端役をやるために
名題になったんじゃねえや」とやさぐれるわけですが、
奥さんに諭されます。「わざわざ名題になったお前さんに
定九郎をやってくれっていうのは、何か魂胆があるんじゃ
ないでしょうかねえ。みんな、誰も見たことがない
定九郎を、お前さんに演じてもらいたいんじゃないかしら」
奥さんにこう諭された仲蔵、また一念発起して、趣向に趣向を
重ねて、山賊だった斧定九郎を、超男前の浪人に劇的アレンジ
して舞台でお披露目しました。
これが江戸中で大評判になって、異例のロングラン興行になった
というサクセスストーリーです。

私が特に好きになった場面があります。
仲蔵が劇的アレンジした定九郎をお披露目したとき、
観客は驚きのあまり言葉を失っていたわけですが、
これを大失敗だと勘違いした仲蔵が、
「ああ仲間に合わせる顔がねえ、上方で三年修行し直してくる」
と江戸を発とうとするのですが(本当に極端な人だなあ)、
日本橋近くに差し掛かったとき、舞台を見ていた客のひとりが
「定九郎が凄かった」という話をしているのを耳にします。

「おれぁよ、今まで見ていてどうも得心がいかなかったんだ。
斧定九郎ってのは、五万三千石の家老の息子だろ。
それが何だって山賊なんかしてるんだ、ってな。
仲蔵が謎解きをしてくれた。あれは山賊なんかじゃねえ、
浪人だったんだ」

中村仲蔵という人の素晴らしさはこの台詞に尽きると思いました。
私はあらすじの中で「アレンジ」という説明をしてしまいましたが、
実は仲蔵がやったのは「アレンジ」ではなく「解釈」だったんですね。

台本に書かれた物語から、登場人物がどんな為人だったのか、
演じる役者自身が解釈する。それが身勝手なアレンジになって
しまえば、到底観客の共感は得られないでしょう。
けれども、根拠と説得力を持った解釈は、きちんと観客の
共感を呼べるんですね。
古典芸術は、そういった解釈に対する懐の深さがあって
面白いなあと思いました。

私の好きなクラシックピアノにも通じる部分がありますね。
クラシックピアノっていうと、よくジャズピアノとの比較で、
楽譜通りにガッチガチに弾かなきゃいけないんでしょう、
と思ってる方が多いと思うんですが実はそうじゃありません。
むしろ、楽譜通りになんて弾けないのがクラシックピアノです。

楽譜というのも詰まるところ言葉のひとつなので、
当時の作曲家がどんな風に弾いてほしいと思って
楽譜を書き起こしたのか、本当のところはわからない。
それを、音符ひとつ、表現記号ひとつ、つぶさに読み取って
解釈するところに、演奏家の独創性が生まれます。
「なぜこんな弾き方をしたの?」という問いに、
「楽譜にこう書いてあるからさ」と根拠をもって答えて、
その演奏にみんながハッとする、というのが、
クラシックピアノ曲の演奏の醍醐味です。
それは、楽譜に残された数少ない手がかりをもとに、
過去の偉大な作曲家と対話し、
そこに隠された意味を見つけ出す「謎解き」なのだと思います。

Gorillazを聴くのが13年振りという衝撃にアレコレ

気がついたら平成最後の師走ですね。去年の今頃「来年は虹と欄干のアルバム出したい」とか寝言を言ってた気がするけど、結局何もやらなかったよね。うん知ってた。

さて、今朝がたテレビで流れてたGoogle PixelのCMが珍しく妙に気になりました。コレ↓


BGMはBNGRSの『Real Thing』っていう曲だそうです。なんか昔どっかで聞いたような曲というか、デジャヴってるなっていう感じがしたので考えてみたら、「ひょっとしてiPod※のCMで流れてたGorillazじゃない?」と思い至りまして。
※iPadじゃないよ、iPodだよ。1台で何千曲入るポータブル音楽プレーヤーってのがもてはやされた時代があったのよ、昔。

というわけでYoutubeで本家PVを検索。


これよこれ!あーすっきりした。っていうか、Gorillazをものすごく久しぶりに聴いた気がするんですが。どのくらい振りかというと、今が2018年で、iPodのCMやってたのが2005年なので、なんと13年振り(!!!!
13年経っても色褪せないGorillazテイスト。すごい。っていうかPVめちゃくちゃイイですね。何がイイって、ヌードルが完全にスナフキンポジション。

で、改めて、何が渡辺のツボなのかなあ、と考えてみると、どうも渡辺は絶対音階から外れた半音と半音の間あたりを攻められるのにすごくやられるようです。なんというか、これ以上外れたら音痴になる一歩手前でブレーキを踏むチキンレース的なスリリングさにやられます。和田アキ子さんの『REACH OUT』とかが好きな理由もそれで説明がつく。


ボカロで絶対音階を外す場合は、ピッチをいじくり倒すことになるわけですが、そう言えば以前、泉まくらさんのカバーでその辺ちょこっと挑戦してましたよ。


うーん、全然もっと攻められますね。反省。。。
ただ、あんまり攻めすぎると口直しというか、ちょっと引き返して安心したくなるので、最終的には由紀さおりさんに着地するわけです。


ああ・・・素敵。ヤバイですね。由紀さおりさんレベルの歌を聴くと、曲をきちんと解釈して、確かな技術で想いを伝えるっていうことがどれだけ大切か身に沁みます。想いだけでも、技術だけでもダメなのよ。なんかどこかで聞いたような台詞だけど、まあいいか。

今日はこの辺で。まさかBNGRSから由紀さおりさんに着地するとは思わなかったwww

宇多田ヒカルさんの「道」を聴きながら考えるアレコレ

来月リリースされる宇多田ヒカルさんのニューアルバムが待ち遠しくて、このごろ『Fantôme』をよく聴いている。
収録曲ほぼ全部キラーチューンとはいえ、2年前に初めて聴いたとき、特に衝撃を受けたのはオープニングトラックの「道」だった。この曲には特に「あなた」という言葉がよく出てくる。

「私の心の中にあなたがいる いつ如何なる時も」
「一人で歩いたつもりの道でも 始まりはあなただった」
「どんなことをして誰といても この身はあなたと共にある」
「一人で歩まねばならぬ道でも あなたの声が聞こえる」

宇多田ヒカルさんが「あなた」と呼びかけるとき、多くの場合、それは母親に呼びかけている、というのが渡辺の持論だけれども、この曲に関しては、それとは別に、ゴスペルの歌詞でよく使われるYou/Theeの影響もあるような印象を受ける。ゴスペルで歌われる「あなた」、つまり神様のことだ。

キリスト教の絶対者としての神の存在に言及したもののひとつに、ルネ・デカルトの無限についての議論がある。

曰く、人間は有限の存在であるが、一方で無限について考えることができる。
有限の存在である人間は本来、無限について考えることは不可能なはずである。
ならば無限の観念は一体どこから到来したのか。
それは人間とは異なる外部から、つまり神から到来したのである…。

それから3世紀のち、ハイデッガーに至るまでデカルトに由来する「Cogito ergo sum(我思う、故に我あり)」のエゴイズムを育み、帝国主義を推し進めてきた西洋哲学の批判者としてエマニュエル・レヴィナスが現れる。

レヴィナスは、デカルトの無限論に対して、無限の観念は、神ではなく、他者から到来すると考えた。
自己とは絶対的に切り離された、外部性、無限として他者は現前し、顔とまなざしを通して私の存在を問いただしてくる。
私の考えや認識の源は、他者から到来したものであり、その意味で、私は他者に対して責任を引き受け、それに応えていく。
それによって他者を同化し把持する暴力的な関係でない、私と他者の倫理的な関係が築かれる、と彼は言う。

ここで話を宇多田ヒカルさんの「道」に戻すと、

「一人で歩いたつもりの道でも 始まりはあなただった」

という歌詞は、レヴィナスの「観念は他者から到来する」という主張と、見事に共鳴する。
だから2年前に「道」を聴いた渡辺は「ようやくJ-POPがレヴィナスに追いついたのか」という衝撃と感激をもってこの曲を受け止めた。

宇多田ヒカルさん自身は、とても個人的な経験や日々の思索からこの歌詞を書かれたのだと思う。
(そしてやっぱりこの「あなた」は、母親のことを言っていると思う)

それでも、宇多田ヒカルさんの歌詞の魅力は、そうした個人的な思索を誰もが共感できる言葉で伝え、そして時に哲学的な問いを投げかけてくることなんだろうと思う。

話は変わるが、最近、仕事の参考にとドラッカーを読んでいる(10年近く前の「もしドラ」ブームからだいぶ遅刻した感がある)。
ドラッカーの経歴を調べてみると、彼もレヴィナスと同世代の人で、しかも同じユダヤ系で、同じく20世紀ナチス・ドイツの猛威を経験している。

その彼も、人間の本質は自由であることだ、そして自由とは権利ではなく義務であり、その意味するところは「責任ある選択」であり、人間に課せられた最も重い荷物だ、というようなことを言っている。

哲学と経営学、まったく畑違いの2人がともにナチス・ドイツの猛威を経験し、同じように「責任」という言葉を中心に理論構築したのが興味深い。

智慧の胡椒論:書かれた言葉じゃ守れないのか


おかげさまで、2013年に公開した虹と欄干Part1はそこそこの話題になったようで、音源を使わせてほしいという申し出や、リーディングイベントに招待されるなど、新しい出会いや、活動の幅を広げる機会に恵まれた。
一方で、虹と欄干を「ポエトリーリーディング」として紹介したことを後悔することにもなった。最初に招待を受けたリーディングイベントで、渡辺は自分が思い描いている「リーディング」のイメージと、世間一般に言う「リーディング」のそれに大きな溝があることを痛感した。

そもそも虹と欄干を「ポエトリーリーディング」として紹介したのは、渡辺が音楽を再開するにあたって、多大な影響を受けた故・不可思議/wonderboy氏への敬意からだった。氏が谷川俊太郎の「生きる」を読むとき、それは谷川俊太郎の言葉が氏の血肉に昇華された魂の叫びだった。
しかるに、渡辺がたまたま最初に招待を受けたリーディングイベントは、客寄せのためにキャスティングされた新人アイドルに、ステージ上で台本を棒読みさせるだけの唾棄すべき催しだった。そのことがあって以来、自分の楽曲では「リーディング」という言葉は使わないようにしている。

けれども、その出来事は、「リーディング」とは何か?ということを改めて考えさせられる契機になった。

例えば、映画俳優や舞台役者も、台本を読み、暗記して演技をしているけれども、見ている側には、台本の存在を感じさせない真実味がある。あるいは、アシュケナージやフジコ・ヘミングがショパンの楽曲を弾くとき、それは同じショパンの楽譜であっても、まったく別の曲になる。渡辺にとってのリーディングの極致は、そういうものだと思う。

プラトンの『パイドロス』では、「書かれた言葉は自分を守ることができない」という議論がある。

言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。そして、ぜひ話しかけなければならない人々にだけ話しかけ、そうでない人々には黙っているということができない。あやまって取りあつわれたり、不当にののしられたりしたときには、いつでも、父親である書いた本人のたすけを必要とする。自分だけの力では、身をまもることも自分をたすけることもできないのだから。(プラトン『パイドロス』)


なんだか都合のいい箇所だけ切り取り編集する現代のマスメディア批判に通じるような話だが、この議論によってギリシア哲学では対話篇が発展し、以来、西洋哲学では、話し言葉と書き言葉の二項対立においては話し言葉が優越する、という考え方が通念になっていく。

虹と欄干のリリックを書く中で、特にPart3以降「守るための言葉とは何か」というのはひとつの大きなテーマだった。
Part4の「書かれた言葉じゃ何にも守れないのか」というフレーズは、上記『パイドロス』の議論の転用である。また、「ペンは剣よりも強い」というリシュリューの引用によって、書かれた言葉は攻撃のための言葉だと位置づけ、それに対して話し言葉は「武田氏の楯無より長けた祭囃子」つまり盾要らずの鎧のように守るための言葉だと結論づけた。振り返ってみれば、虹と欄干は、話し言葉、語られた言葉をVOCALOIDで再演する試みだったように思う。

現代では、録音技術の発達によって、話し言葉もまた、書き言葉のように自分を守れない境遇にさらされている。一方、チャットやSNSなど通信技術の発達によって、書かれた言葉であっても、話し言葉と同じように対話することができるようになっている。
書き言葉と話し言葉の垣根が曖昧になっていく中で、詞や曲を作るという表現もまた、作り続けるという不断の努力によって守っていかなければいけないような気がする。

テーマ : VOCALOID
ジャンル : 音楽

智慧の胡椒論:エモさについて



2016年3月、Deep Mind社が開発した人工知能ソフトウェア「Alpha Go」が囲碁で韓国のトップ棋士イ・セドル九段を破った、というニュースが大々的に報じられ、Deep Lerningという新しい人工知能の可能性を世に知らしめる契機になった。

その事件を自分なりに解釈して、人工知能をテーマにした曲を作ろうと思ったのが、『智慧の胡椒を求めて』制作のきっかけだった。GUMI誕生祭が数日後に迫る6月後半のことだった。

当初考えていた楽曲のタイトルは『Artificial Emotion』(人工感情)だった。

というのは、以前から渡辺の楽曲によく寄せられる「エモい」というコメントが、自分の中でずっと引っかかっていたからだ。正直、あまり好きにはなれない言葉だった。

楽曲に限らず、あらゆる創作物には創り手がいて、創作物には創り手の思いが込められている。いわば人工感情である。
もしかすると、それこそが「エモい」という言葉が指し示すものの正体なんだろうか。そんなことを考えながら、作詞は最初のうちはなかなか進まなかった。

ソフトバンク社のロボット「Pepper」と、高村光太郎の詩集になぞらえて、「智慧の胡椒」というフレーズを思いついた後、状況は一変した。そのフレーズは、胡椒を求める人びとの巨大な意志が世界の大変革をもたらした大航海時代のイメージと結びついて、それからはもう言葉があふれ出してペンが止まらなくなった。残り4分の3ほどの詞を書き上げるのに、2時間もかからなかったと思う。そんな経験は初めてだった。その明確なイメージをもとに、タイトルも『智慧の胡椒を求めて』に変えた。

詞の内容は、IT系の知識を中心に、数学、現象学、文明論、宗教、魔術、古典、囲碁、漢詩、量子論、SF、国際情勢、ポストコロニアルなど、様々なテーマをメタファーで包んでいて、すべてのフレーズが隠された意味を持つように書いている。

一例を挙げると、

「伊勢の神楽と踊るは新時代」

という詞は、冒頭で紹介したイ・セドル九段を囲碁で破った人工知能の新時代を示唆している。
そんな風に隠された意味を想像しながら、言葉の迷宮を楽しんで聴いてもらえたら作者冥利に尽きるけれど、おそらく底辺Pの詞を文芸批評家のように分析するリスナーは皆無だと思うので、あまり贅沢は言わないでおこうと思う。

そういう意味で、この曲は目下、渡辺の曲の中では最も難解で、最も「エモくない」曲になっていると思う。

ちなみに、制作期間は作詞・作曲・調教・ミックスで約3日、イラスト・動画制作を含めて4日と、最も制作期間の短い作品になったことも付記しておく。

テーマ : VOCALOID
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プロフィール

渡辺いと

Author:渡辺いと
(本名:渡辺峻)
1983年東京生まれ
【好きな音楽】
・クラシックピアノ
・アングラヒップホップ
・演歌
【好きな球団】
・阪神タイガース
【好きな汎用人型決戦兵器】
・エヴァンゲリオン弐号機

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